富野監督と「純愛」の話の考察続き(その1)です。
凄く長くなったので、2回に分けます。。。
「純愛」とか「恋愛至上主義」、「恋愛」などの言葉の定義が定まっていないのでブレた様です。
まずは、「純愛」の定義から
純愛:
(a)邪心のない、ひたむきな愛。
(infoseekの国語辞書powered by三省堂
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?sv=KO&qt=%BD%E3%B0%A6&sm=1&lp=0&se=on&gr=ml)
(b)打算や妥協のからまない恋愛または恋慕の感情のこと。
(wikiの「純愛」から引用)
(c)すぐに心変わりしたり忘却されるような愛ではなく、
障害を乗り越えて、一途に思い続ける感情
(wikiの「純愛-純愛ブーム」から引用)
国語辞書的には、(a)の意味{wikiの(c)的な意味合いもこちら}なんですけど、この頃はwikiの(b)的な意味合い”打算や妥協のからまない”愛や愛情。が主流に成って来ているんでしょうか?
今後の”ねも”のコメントでは”純愛”を(a)や(c)の意味と定義して論を進めます。
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次ぎに、「恋愛至上主義」の定義
「恋愛至上主義」=「純愛(主義)」
「恋愛至上主義」こそが実は「純愛」なんですね。
定義の確認をした為、色々と混同されている混同している部分の洗い出しが出来ました。
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コメント「その2」で
アップアップしている熟年世代の”熟年離婚”を「見合い(恋愛感情のない)結婚」と「恋愛(感情のある)結婚」の2極のみで、しかも主観のみ、監督の使っている“恋愛至上主義”等の定義を確認しないまま、考察(?)したのが、フォーカスがずれてしまった原因の様です。この2極論だと「恋愛(感情が少しでもある)結婚」贔屓の自分は“恋愛至上主義”的になってしまう(笑)。
コメント「その3」で
恋愛や結婚の判断基準で、一番優先される要素が「恋愛感情(好きか嫌い)」なのが「恋愛至上主義」であるのならば、私は恋愛至上主義者という事になるかもしれません。と書きましたが、これは、富野監督のいう「恋愛至上(純愛)主義」とねもの「妥協努力も含めた恋愛感情優先主義」を混同していた為で、
上記、定義に当てはめると「妥協」を容認している時点で、実は全然「恋愛至上主義」(純愛)では無いんですね。
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>ただ、その原因がお見合い結婚なのかどうかは、私には疑問です。(恋愛結婚であれば大丈夫だと?)(囚人022さん)
そうですね。この点は再考の余地有りです。実際に”熟年離婚”をした方のアンケート結果とか参考になる科学的データが無いとただの想像論になってしまいますね。
「恋愛(100%の完璧な相思相愛)(“感情のない”も含む)結婚」のほうが、「見合い結婚」よりも、相手を(何らかの妥協はしていても)選んだ自己責任比率(自意識内)が高いので、「こいつを選んだ(こいつに惚れた)のは自分なのだし、こいつのここは好きだし、惚れた自分が悪いのだから多少の事には目を瞑ろう(相手に合わせる努力をしよう)」という離婚回避の最後の歯止め的な働きが期待出来るのではないかなぁという幻想を抱かせるんですけどねぇ。(それとも、以外に恋愛感情が無い方が離婚(収入の消失)の危機にシビアに判断・対応出来るのでしょうかね?)
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富野監督発言から読み解く「純愛」
(富野監督の言葉の使い方は特殊なので読み解きは大変です。)
矢 パート3のサブタイトルは『星の鼓動は愛』。愛ですよ、LOVE
矢 恋愛ってものすごく重要なんだよっていうメッセージ?
富 もう少し当たり前に考えたらいいんじゃないですか、
これは、
恋愛(100%の完璧な相思相愛)は、ものすごく(頭の中で理想化している程)は重要ではない。もっと自然(「本来の恋愛」とは「相互に妥協努力の積み重ねが必要なもの」)に考えたらいいんじゃないですか、
という事なんですね。
ここで富野監督が使っている“恋愛”は、「100%の完璧な相思相愛」という意味で、この先この「置換」を行なわないと意味が上手く取れないので注意ですね。
富 そう。現代の結婚は恋愛あってのものだと考えられている。まさに恋愛至上主義なんです。
敢えて注釈を入れると、
富 そう。現代の結婚は恋愛(100%の完璧な相思相愛)あってのものだと考えられている。まさに恋愛至上主義(純愛)なんです。
となるでしょうか?
ここでの「恋愛至上主義」の対になる物は、一見、「見合い」なのですが…、
富 『「恋愛(100%の完璧な相思相愛)感情のない結婚なんて気持ち悪いじゃん」よほどいい巡り合わせがあったから(100%の完璧な相思相愛の)フォーリン・ラブになれるんであって、』100組のカップルがいて、80〜90組ぐらいまでは、「まあ、こんなもんだ」と思って結婚したという人のほうが多いんじゃないのかな?
ここで、先の発言にある
80〜90組位のカップルは、「まあ、こんなもんだ」と幾らかの相手へ求める自己の基準面で妥協・打算をしているんですが、
ところが、富野監督は、これを「恋愛感情のない結婚」という省略した言葉で説明するから話がややこしくなっているんですね。
本当は、「恋愛(100%の完璧な相思相愛)感情のない結婚」という意味で言っているんですが、「(全然)恋愛感情のない結婚」 という意味では無い事に注意が必要なんですね。。。(注釈が入ると意味が取れるけど)紛らわしい!
「恋愛至上主義」の対になる物は、実は「見合い(恋愛感情のない結婚)」では無く、「両者ともに妥協努力をした恋愛優先主義」という事なんですね。
生物のペアリングの動機が「恋愛」であるかは不明ですが動機(相手を受け入れるかいないかの基準)を「恋愛」と呼ぶと生物的に本来ある結婚の形は恋愛あってのもの(=恋愛至上主義)なのではないでしょうか?動物だって「種」の存続の為に妥協してペアリングしない「種」もあるみたいですし。。。 中世の政略結婚とかの方がある意味異常?。
>こういうのを読むと、御大はアンチ「恋愛至上主義」を推奨してますよね。(笑) (囚人022さん)
ここではアンチ(非)「恋愛至上主義(純愛)」を推奨しているのに新約では「恋愛至上主義(純愛)」を描くというのだから混乱です(笑)。
矢 私もお見合いは悪くはないと思います。〜(中略)
富 (中略)〜結婚であり、人間であり、世の中なんです。
> これね、今の世の中の主流は“恋愛至上主義”だから、反発を持つ人が多くいるのは当然だと思うんですよ。(囚人022さん)
富野監督の発言の趣旨は、(一部の言葉の使い方を除いて)まぁ、普通の一般論なので“恋愛至上主義”者だからといって特に反発を持つ様な物では無いと思います。
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>…純愛を語りながら「ベッドシーンが〜観ている」というところが、なんかミソのような気がするんですね。(囚人022さん)
「ベッドシーンがあっても、観客はそれを楽しみに観ているんです。」の”それ”は”純愛”を意味している訳で、「(”純愛”を表現する上では妨げになるベッドシーン(直接的、肉欲的な愛の描写)があったとしても、観客は”純愛(精神的な恋愛)”を楽しみに観ているんです。」と言い換えれるとおもいます。
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「だまされ振り回されといった男女のリアルな心の駆け引きに焦点を合わせており、それこそが真の純愛であると富野由悠季監督は説いているかのようだ。」
増當さんのこの解説では、富野監督の”(真の)純愛”は、男女のリアルな(だまし、振り回しといった)心の駆け引きと言われていますが、これは、上記の定義に当てはめると、”純愛”では無くてただ単に「恋の駆け引き」というのではないでしょうか?
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ロミジュリの中で、ロミオとジュリエットの純愛は、相互に相手の事を一途に思い続ける恋愛の物語として描かれている訳で、ロミオやジュリエットが相手をだましたり、振り回そうといった事は無かった様に思います。
この点で、富野監督は、ロミジュリを”純愛”と捉えられているので”純愛”を少なくとも「(障害を乗り越えて)一途に思い続ける感情」という意味でも認識されている事は疑いないと思います。
”例示されている富野監督の戯作者としての「純愛」絡みの発言”からは、囚人022さんの「富野監督の”純愛”感」が増當さんの解説等の先入観に引き摺られて、「どうもこの方は、世間一般で思うところの“純愛”観の持ち主ではないんじゃないか」となっている気もしないではありません。
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>・3部はカミーユが世間を取り込み日常に還るというのがテーマ。この世間というのはΖの物語。 (富野監督)
これは、
『3部はカミーユが「Ζの物語」を取り込み「日常に還る(ファの純愛に純愛で応える=ガンダムの表舞台からの退場)」というのがテーマ。』
と言い換える事が出来るでしょう。
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・コミュニティ論
囚人022さんは、「コミュニティは(そのコミュニティの構成員同士の)恋愛をもっと素朴に祝福してもいいのではないか」といわれていますが、コミュニティに幻想を抱きすぎの様におもいます。(ねも)
これは、現実のコミュニティはコミュニティ(の「和をもって尊しとする(=いま有る「和」を乱すものは認めない)」という思想)にとって望ましくない恋愛(例えそのコミュニティの構成員同士の相思相愛であっても)は許容しませんよという意味です。
>仮に“キミとボクだけのセカイ”を夢想してさえも、それは実際には、既に最小限のコミュニティだったりするんじゃないかと私は思うんです。(囚人022さん)
「2人であっても最小限のコミュニティ」は、その通りなんですが、ここでは「(恋愛関係の2人だけの)コミュニティが2人の恋愛を(もっと素朴に)祝福してもいい…」という話ではないですよね?
>「ああ、こいつとこいつが連れ合いになってくのね、おめでとう」という素朴な祝福。(囚人022さん)
これはコミュニティの他者と恋愛関係の2人の恋愛的利害が一致しない場合のみ成立ではないですか?
例えば、こいつの事を俺は好きだ、アタックしたらこいつと連れ合いになれそう(実際に勝算は有る)と思ったら「おめでとう」という素朴な祝福なんかして居られますか?
>個人として考えるんじゃなくて、それこそ「種」が存続していくために、連れ合いを見つけようとすることを皆の喜びとして共有できる気分。言われてみれば、恋愛がいつからか個人レベルのゲームみたいになっちゃっていることの問題というのは確かにあるんだと思う。 (囚人022さん)
人間も生物である限り、「恋愛」は個体の直系子孫を残す為の生存競争(一種のシビアなゲーム)であり、「種」の存続等はもっと優先度が低いのではないか?と自分的には思います。
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ヘンケンとエマの関係とその結末を、“純愛”のひとつの帰結として考えたときに、「戦場で、戦場ではしゃいでるから…お調子者……。くっ!!」という直後のカミーユの台詞は、私にはやはりこの二人のありようにも重ねて投げかけられた言葉だったと、やはりその考えからはどうしても抜けられません。
「戦場で、戦場ではしゃいでるから…お調子者……。くっ!!」
この台詞は、やっぱり「本来守らなければならなかった者(マウアー)を守れもせず、
死者に報いる為に(マウアーの信じたジェリドの)大義の為に戦うでも無く、ただ
私怨で戦い(死ぬ必要もないのに)無意味に死んでいった好敵手足りえたかもしれない
ジェリドに向けての物だと思います。順当に。
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>単にあれはハイになってるだけじゃないですか、カミーユ?(のりのりさん)
もちろんそういう解釈もありえますし、ただでさえ男性が少しでも好意を抱いている女性に抱き付くのですからその時点でハイになってない訳がないですし…。少しの恋愛感情も無しで、ただ単にハイになって抱き付いたのであれば、それはそれで、前後に、もう少しそういうハイになった描写とかが必要だと思いますけどね。
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>まあ、女の子の気持ちはわからないんで、(スカルさん)
ファをリアルにシミュレートすれば、それは富野監督も同じだと思います。(笑)
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[2006/11/13 00:41]






Zeta-TEXT版航空巡洋型サラミスその1

